石畳を渡る冷たい空気が至る所に飛び散った血液を固めている、流れ落ちる新しい血はその上に重なり色濃く混ざり合い、黒い斑点を床じゅうに残していく。汚れの落とされない壁は至る所が削れ、肉の欠片はその欠けた刃先に食いかけかのようにこびり付いていた。黒く乾いた血に張り付いた皮が剥がれていく音もするが、感触は無い。動かさなければ固定された両腕ももがれて存在していないかのように感覚がなった。久しぶりのまともな言葉を出した後の気管はひどく痛み、なんとか呼吸は収まっていたが、辺りの声はまだ発情した猫どもの様に忙しなく泣きわめいては鉄格子を何度も叩くので、そのまま眠りにつく事はできなかった。猫の爪が長く細く壁を引っ掻き散らしている、石の叩かれる音は普段の生活からかけ離れた、物が壊れる音に近く、骨が打たれる響きが病的なまでに重なっていき重たい鉄の重なりが地獄に相応しく耳の奥で木霊した。

「……エース君、何を考えとる」
「今は、考える気力もねえんだ、」

動けば鉄の重みで腕が痺れていく、神経が繋がっているままでも体の力を抜いておけば、もうこれ以上乾いた血がかけてまた流れだす事もないだろう。エースの肉体が死体のように固まっているのと正反対に、ジンベエは息を深く吸うとまた鉛の様な腕をもがき体に食い込もうとする肉の千切れそうな引き攣った音も気にせず前へと乗り出した。青く海豹のようにざらりとした表面を滴る血がジンベエの丸い鼻先を伝い、唾とまとめて呑み込むように歯をむき出す。

「あの……ハンコックについていた少女の言う事、わしぁ嘘とは思えん」

困惑がジンベエのほうがより鮮明に表情に垣間見えてくる、事の張本人を差し置いて事実の意味する現状を想像すれば、この真上で起きている自体が自分の行動にも関わってくると考えているのは、ジンベエ自身の勝手な妄想からだろう。物憂げにかわすつもりもないエースは他人の創造などを一々ほじくり返す事などはせず、目を細めて先ほどまで目の前にいた、自分とそれほど変わらないであろう歳の少女の顔を思い出した。

「……たとえ本当にルフィがここにきてようが、あいつにマゼランは倒せねえ……いや、そもそもこの話にあいつが首を突っ込む事自体、間違いだろうが」
「エースくん!!そんな事をよく堂々と言える!わしゃあ麦わらの一味と繋がりがあるわけではないが、出来る事ならわしも彼を……あんたを助けたいくらいじゃ……!」
「ジンベエ……!お前の仁義を咎めるつもりはねぇが、ルフィはいっぱしの海賊だ……!あの子もそうだが、そもそも無意味に他の海賊の戦争に首を突っ込めばいいって話じゃねえだろ……!」
「ルフィ君は海賊の掟に従い生きている訳ではなかろう!わしとて海の道を選んだが元はただの男!いつまでも自責の念に捕らわれとらんで、あの子の言葉を信じたらどうじゃ……!」
「諦めるなって?……あの子には悪いが、もうそうやって躊躇するつもりもない……」

エースの胸には、そもそもなぜあの子がああまでして自分の元へきたのかすらわからなかった。ルフィの仲間と言っていたが、彼女はアラバスタにはいなかった。幼そうな柔らかい輪郭に、丸く大きな瞳、光を受け透けるかのような明るい日色の髪先があまりにこの場に不釣り合いで、絵画の中で一人彼女だけが生きているかのようにすら見えた。そして、あの時彼女がまっすぐこちらを見たあの瞳は、とても友達の兄を心配している顔ではなかったのだ。まるで自分の事を、エース自身を前から知っている、

――エースにしてみれば仲間、家族ですらあるかのような、そんな顔をしたのだ。泣きそうな顔だ、暗い牢獄の中に灯された古びた明りが彼女の輪郭を映した時に、そっと彼女自身気付かないうちに頬を流れたたった一筋の光の粒が、目の中で鮮明に思い出される。あの時自分の指先が彼女に触れる事を許されていたなら、何をしたのだろう。

「……エース君、どうして君は、そんなに……」
「何、も言わねえでくれ、ジンベエ……」

あの騒がしい声に紛れて、消え入りそうな囁きが、俺に向けて小さく落ちた。

(諦めないで下さい)

お前は誰だ?
会った事も、話した事もないじゃないか、なのに、どうして?
……思わず、彼女に言ってしまいそうになった。
泣かないでくれ、どうか。
そう、まるで自分たちはずっと昔から知っていたかの様に、俺の為に泣くなと、周りのさざめきが何もかも群衆と影に紛れうごめきは虫の様に壁の外を伝って行く、彼女が、あの時目の前にいた、あの子ただ一人が鮮明に動いて震える指先が牢を触れる。隠すように瞼を擦った、肩を怯えたように細かに揺らせ瞳を滲ませたあの寂しそうなその腕をとって、自分の胸の中で泣かせたかった。
隠してはダメだ、そうやって、俺の事を、俺の何を見て、お前は泣いてるんだ……?


「……来るな、ルフィ……」


誰かを悲しませてしまう事など、海に出た時から覚悟してきた事だ。自分が死ぬのも、仲間を失うのも、何もかも乗り越えて拳を振るわねば、緩んだ決意がまた誰かを殺す。そうして、何もかも覚悟してここに座っていたのに、何かがひとつ音を立てる所為で、緩やかに振動が胸の奥にまで伝わっていく。一度熱を持って、やがて感覚の無かった

体中に全ての血が流れ出す。どうしてあの時、目の前で自分のために泣く女の子にまともな声をかける事が出来なかった?
どうしてそんな事を考える?
俺たちは――会った事もないのに。

忘れていたものが、一気に巡らせ体の中の痛みと共に訴え出す、全ての人間が今、自分と同じように生きている。親父も、マルコも、ジョズも家族全員が……ルフィ達が、それをどうして今迄忘れるかのように胸の奥に捨てていられたのか、それをどうして…どうして今になって思い出してしまうのか!
エースは言葉に出したくもない思いが胸から濁流の様に吐き出てしまいそうになり、唇を血が出るほど強く噛んだ。痛みを感じる事すら煩わしかった。さっさと処刑してくれればいいと言う考えはあまりに身勝手だとわかっていて
――今センゴクが目の前にいたならば、それを願ってしまいそうにもなった。


あまりに身勝手な心象が胸に溜まり、そうやって考え出したことなど、今まで一度としてなかったのにな、と、エースは持て余しそうなほどのその感情に、静かに苦笑した。
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